もふもふ夢日記

日々感じたことの雑記

ブログ

何事も、始めたばかりの時は生き生きとしていて、やる気に満ちているけれども、続けるとなると、どうして気持ちが変わってしまうのか。

というのも、せっかく始めたこのブログも、思っていたほど書けないという現実がありました。
当初は、鮮明な夢を見ることに興奮してブログを始めたが、いざ書くとなると結構難しかったのです。
単に自分のためだけに書く夢日記は、文章が支離滅裂でも自分が分かればいいやという感じでかけるが、ブログで不特定多数の人が読む可能性を考えると、うまく書けないことが多いことに気づきました。

簡単に言うと、発信することを舐めていたわけです。

今は誰でもネット上で発言したり、発信することができるので、それらは気軽に使いこなせるものだと思っていたのでした。
私も他の人が気軽にネットで発信しているように、自分も発信できるものなのだろう思っていたのです。

けれども蓋を開けてみれば、ブログを書くことは思った以上に時間のかかることで、やっと書き終えた記事も読み返してみると文章がおかしかったり誤字があったりして書き直し、深い内容を書こうかなと思っても語彙力が足りない、などなど、やってみなければわからないことだらけだったのでした。

反省。
というか、この先、ブログどうしよう。

と言いつつも、ブログをやめる気はないのです。
というか、やめたくないのです。
この気持ちだけは不思議です。

おみくじ

昨日から心理的にしんどかったので、今日はなんとなく神社へ行ってまいりました。
(今回の記事は夢日記ではなく普通の日記です)

行ってきた神社は、阿佐ヶ谷神明宮

気分的に家から徒歩で向かいました。
近所ではないので、結構歩いたと思うのですが、時間を見ていなかったのでどれくらいかかったかわかりません。

歩きながら、「すごく心がしんどいから邪気だらけに違いない、神社へ入ったら必ず手水をしよう」、と考えていました。

神社へ付き、中へ入ったのですが、前に来た時と違う感じでした。
一瞬別の神社へ入ってしまったのかと思いましたが、阿佐ヶ谷神明宮と書かれていました。
拝殿までの道筋も前に来た時と違うので動揺してしまい、ここで手水のことは一気に忘れました。
あれー? と思いつつ拝殿へ向かい、お参りをして、おみくじを引き、別の出口から出ると、手水があり、そういえば絶対に手水はしようと思っていたじゃないかとがっくりしました。
前に来た時と違う出入り口から入ってしまったようです。
まー、最近しんどいからこれくらいあってもしょうがないよな、と思いながら神社を後にしました。

お参りでは、私の名前と住所としんどいことを告げ、そのしんどさはどうしたら解消されるのか、今からおみくじを引くのでアドバイスをくださいと願いました。

おみくじを開くと末吉で、書かれているメッセージは納得のものでした。
前に引いた時も当たっているなーと思いましたが、今回もそうでした。

けど、
財運・しばらくは苦しい状態、耐えましょう
仕事運・うまくいかないことも想定しておくこと
って、
私が聞きたかったこと以外にもしんどいオプションが付け足されて苦笑い。

唯一良いことっぽく書かれていたのも、
願望・かなわなくても幸せです
って、
遠まわしに叶わないと言っているんでしょうか。

そんな感じです。

九月

九月に入ってから、また鮮明な夢を見るようになった。
日によっては夢の内容を忘れてしまうが、夢日記も再開した。

鮮明な夢は、内容や気持ちや視覚が現実のようにリアルだ。
特に視覚の鮮明さは色に現れるので、空は青く、太陽光のような日差しもまばゆく、花の色も幻想的だ。
夢の中の私は綺麗だなーと思いながらそれらを見ている。
とはいえ、夢の光景は良くとも、夢の内容はそんなに良いものではない。

最近見ている鮮明な夢も、前回見ていた夢も、やりたいことができなかったり、苦手な人に嫌な思いをさせられたりする内容の夢ばかりであった。
目が覚めたとき、夢の鮮明さのおかげで気分は悪くないし、むしろ良い気分なのだが、夢の内容はそんなに良くなかったなーと毎回思った。
嫌な思いをしているけれども、全体的な夢のイメージが明るいので、そこまで嫌なイメージを残さずに済んでいるようだ。

現実でも、夢の中の心持ちなら、何が起こっても穏やかでいられるのになあと思ったりする。

やはりいろんな意味で夢って不思議だ。

ただ、八月に見ていた夢の方がインパクトがあった。
理由はわからないが、八月の夢の方が目が覚めてからも長く影響が残ったりした。
また見たいなと思う。

もちろん、夢を見ることは今でも興味深いし面白いと思っている。

夢を見ない

最近夢を見なくなった。
という言い方は間違っているが、そういう感覚だ。
夢を見ても、眠りから覚めると、内容をさっぱり忘れてしまうようになった。

このブログを始めたきっかけの一つに、鮮明な夢ばかりを見るようになったという理由があった。
当時は、夜眠れば毎日鮮明な夢を見たので、朝起きてその夢をメモするのが楽しくてしょうがなかった。
今までにない不思議な感覚だったのだ。

それが、なくなってしまった。
調子に乗りすぎていたのだろうか。

私は初めて書いた記事に、夢日記のつけ方について書いたが、そんなものは全く使えないという時もあった。

朝起きて、夢を見た感覚はしっかりとあるのだが、夢がとても遠い場所にある感じなのだ。
もちろん、意志を持って思い出そうとすれば、遠ざかった夢の先っぽくらいは掴めるのだが、そのまま意識が遠ざかって寝てしまったりする。
そうするともう、覚えていられません。

いわゆる、二度寝です。

二度寝は気持ち良いですよ。
夢を見なくなった(覚えていられなくなった)私でも、夢を見られるのですから。
二度寝で夢を見ているなら、夢を見ないとか夢を覚えていられないというのは矛盾していますが、あの鮮明な夢を見続けた時期とは違う感じなので、あまり解釈しようと思えないのです。
深い意味を感じない、とでも言いましょうか。
もちろん二度寝でも印象的な夢を見ることもありますが、最近はめっきり見ません。

鮮明な夢を見続けていた頃が恋しいです。
眠りの質が変わったのかもしれません。

大好きな時間が、単なる時間になってしまった。

三日連続

さっそく三日坊主というか、三記事坊主だ。
『三』という基準はなんなのだろう。
仕事も三日続けば三ヶ月続くと言われ、三ヶ月続けば三年続くと言われている。

逆に三日(三記事)以降が続かなかった私は、さっそくブログをやめてしまうのだろうか。

更新頻度が低く、三記事書き終えてから放置されていたブログだ。

が、……今のところはやめる気はないのです。
色々と気にしないで気楽やっていこうと思っている。


三といえば、半年ほど前に、三日連続で同じような夢を見た。
少し怖い人に目をつけられて嫌な思いをする、という内容の夢だった。
怖い人は全員別人で、日によってヤ○ザ風だったり、不良風だったり、オタク風だったりした。
怖さが違うのだ。

解釈はいろいろな角度からできると思うが、この夢については思い当たるところがあったので、夢占いサイトで調べることなく自分で考察した。

夢の中で私は、怖い人たちに自分の気持ちを言えず、嫌な思いをしていた。
それから目が覚めてからの考察で、夢の中に出てきた怖い人に対する『怖い』という気持ちは、過去の私が誰かに持った気持ちに似ていると感じた。
具体的な過去の記憶は曖昧だが、前にもこの気持ちを持ったことがある、という感覚があった。
というわけで、この夢に関しては、夢のストーリーというより、夢の中で感じた『怖い』という気持ちが重要なのだろうと思った。

ちなみに私は、数年前から瞑想を始め、徐々にだがいろいろなことが変わったと感じている。
特に心理や精神が変わり、心の安定感が増した。

そこで夢の考察だが、私は過去の出来事で『怖い』と傷ついた気持ちを噛み砕くことができず、心に残したままのようだった。
そして瞑想の効果で徐々に心が浄化されていったことで、『怖い』という感情に関する夢を見たのかなと考察した。
実際、夢を見たことで、その『怖い』という気持ちが解放されたように感じたのだ。
起き抜けは嫌な気分だったが、どこかでスッキリもしていた。

それから怖い人の夢は見ていない。

こう書いてみると、根本は前回書いた逃げる夢とあまり変わらない気がした。

 

逃げる夢

学生時代はよく、『逃げる夢』を見た。
はっきりと姿はわからないが、何か嫌なものが私を追いかけて来て、私はその何かから逃げるのだ。

当時は夢日記をつけていなかったので具体的なシチュエーションは忘れてしまったが、逃げている時の感情や感覚は覚えている。

逃げている時の感情は、人が逃げたくなる時の感情そのもので、追いかけてくる嫌なものに捕まりたくないという焦りや恐怖でいっぱいだった。
逃げている時の感覚は、現実で歩いたり走ったりしている感覚とは違い、足や体が重くて思うように動けず、必死に空間を掴むようにしてもがきながら逃げていた。
上手く逃げられないのはストレスだったが、追いかけてくるものに捕まったことは一度もなかった。
もしかしたら、覚えていないだけで、一度くらい捕まっているかもしれない。

私が見た『逃げる夢』の解釈は難しく考える必要がない。
私は追いかけてくるものに対して、嫌だなとか、恐怖を感じていたので、ただ単に嫌なことから逃げているという気持ちの表れだ。
学生時代によく見たというのもヒントで、学校生活で起こる嫌なことから逃げたいという気持ちがあったのだ。
実際、私は勉強が嫌いだったし、向き合いたくないものや、向き合えないものがたくさんあった。
けれども、夢の中で追いかけてくるものに捕まったことはないので、嫌なものからきっちりと逃げ切っていたようだ。

二十歳を過ぎたあたりから逃げる夢を見なくなった。
少しずつ現実と向き合えるようになったからかもしれない。

夢の解釈

夢日記は、読み返して自分なりに解釈してみるのが良いと思う。

ただ夢を見て、嬉しかった、最悪だった、癒された、というのも楽しいが、夢の魅力に気づき始めると、一歩進んでその夢の意味を知りたくなるものだ。

私は夢が気になるようになってから、その日の夢に出てきた象徴的なものを夢占いのサイトでチェックするようになった。
すると、自覚していなかった意外な気づきがたくさんあった。
例えば、『猫』という象意ひとつとっても、たくさんの意味があったからだ。
ほー、猫にそんな意味があるのか、なんとなくピンと来たから、こういう意味だったのかな、ああいう意味だったのかな、なんて考えるのも一興だった。

そして、しばらくは夢日記と夢占いのサイトを照らし合わせて解釈する日々を送っていたが、ある時、夢占いの象意と自分が夢の中で感じたものとの整合性がつかなかった。
なんか違う気がするなーとか、ピンと来ないなーというものだ。
解釈がしっくりこないということで、夢に対する興味が薄れたりもした。
けれどもしばらくするとまた象徴的な夢を見て、夢への興味が復活するのだった。

夢への興味は紆余曲折ありつつも、やはり好きだという思いに落ち着き、自分がその夢を見てどう感じたかも大切にしようという考えに至った。

それからはなるべく自分の気持ちに従い、まずは何にも頼らずひとりだけで夢の解釈をするようになった。
思い込みもあるかもしれないが、とりあえずは夢日記を読みながら自分が客観的に何を思い、何を感じるかを試すようになった。
すると、不思議な感覚があった。
夢の中の感覚とは違い、客観的に夢日記を読む私の思考は、直感的に答えやヒントを感じたりするようになった。
それは、言葉だったり、感情だったり、過去の情景だったり、普通の気づきだったりした。
なーんだ、こんなことか、なんて拍子抜けするような答えがわかることもあった。
また、夢占いのサイトに頼りきりだった時よりも夢の解釈を楽しく感じ、素直に自分と向き合った方がより精度の高い理解を得られるという仕組みから、大きな気づきや学びとなった。

それから自分で夢の解釈をしつつ、本当に特徴的で気になってしょうがない状況やアイテムだけは夢占いのサイトも活用するというやり方に変えた。
本当なら、全て自分だけで夢の解釈ができる方が良いのかもしれないが、もう少し学ぶ時間が必要のようだ。